皇居散策 天守台へ、、、
伊勢廣 京橋本店でお昼を済ませて徒歩15分、向かったのは、皇居。
厳密にいうと『二重橋』ではなく、ただしくは『正門石橋』と呼ばれる橋。
真の『二重橋』はこの位置からだと正門石橋の奥に隠れてほとんど見えません。
出典
「伏見櫓」
西ノ丸の築城に当たり、豊臣秀吉が京都伏見に築城した伏見城の櫓を解体し、
ここに移建したと伝えられており、「伏見櫓」の名称はそれに由来するといいます。
関東大震災の際に倒壊したため、解体して復元されました。

かっこいい~!、しばし見とれて、、、
大手門に向かいます、、、

巽櫓(たつみやぐら)は、隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」。
現存する櫓の中で最も近くから見る事ができる為に、
破風に施された青海波模様の美しい屋根をじっくりと観察できます。
防御設備として、櫓中央の出窓のようにせり出ている下面には「石落とし」という穴があいています。
それは、石垣をよじ登ってくる敵兵に石を落とし熱湯をふりかけ、
あるいは鉄砲で真上からの攻撃が出来るような構造になっているそうです。

芽吹き始めた柳の初々しい新芽、、、
この奥が大手門で、簡単な手荷物検査がありますが、
入場料は無料でした。
ただただ圧倒されるばかり、ひとつひとつ巨大な石、、、
さまざまな種類の石垣をながめているうち、
今村 翔吾著 ”塞王の楯” を思い出し、
石垣のことを、ちゃんと勉強して再訪しよう!、と、、、
百人番所
長さ50メートルを超える、江戸時代から残る江戸城の遺構です。
ここは本丸の入口にあたる門であることから、江戸城最大の検問所でした。
百人番所には「百人組(鉄砲百人組)」と呼ばれた
根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)の4組が交代で詰めていました。
各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たっていたそうです。
同心100人ずつで警護していたので、百人番所と呼ばれています。
出典
はるばる、この天守台を見にやってきたのであります、
江戸初期の50年間だけ存在したという江戸城の天守閣。
江戸城の天守は、慶長12年(1607)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と
将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。
寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により
高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、、
出典
家光の異母兄弟である保科正之(1611-1673、初代会津藩主)が
「こんな見掛け倒しのものを作るよりも(天守の再建よりも)江戸の町の復興の方が先だ」として、
再建させなかったんです。
その後も、徳川家宣(1662-1712、六代将軍)の時代に再建計画はもちあがるんですが、
財政難で結局再建せず、今に至るわけです。
出典
大好きな、保科正之のお名前が出てきました!
冲方丁著 ”天地明察”★、再読しようとワクワクしてきました、
満開の早咲きの桜の下では、自撮りや記念写真の大勢の外人さんたちで賑わっていました。

誰も気が付いていませんでしたが、頭上では、
たくさんのメジロさんたちが、花の蜜を吸いに集まっていました。
みんなせわしなく飛び回っていましたが、
なぜか、この子だけは、じっとしていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新旧のコントラストが、あちこちにあり、
興味深く眺めておりました。
驚いたことに、Wi-Fiが、、、
とにかく大勢の外人さんたちで、にぎわっていて、
うちのおじさんが、日本人は、警備員さんとおれたちだけじゃないかと言うほどでした、、、
外人さんたちは、朗らかで姿勢がよくて、
見習おう♪、と思いました、
本日は1万80歩、石室や、富士見多聞も見学して、よく歩き、
おいしいものを戴き、見事な石垣、きれいな桜に、ずいぶんと慰められました、、、
感謝の一日です、、、
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