
深く考えさせられました、、、
”相次ぐ無差別の襲撃事件、社会学者・宮台真司さんに聞く”
朝日新聞(1/21)より一部を転記します。
人間関係が空洞化
人を殺せないのは、殺してはいけない理由があるからではない。殺せないように育つからだ。
そうした感情面の発達は、どんな人間関係の中で育ったかで決まる。
その成長環境が1960年代から90年代にかけて激減した。子供はそれまで、
①異年齢集団による外遊びで共通感覚を養い、
見ず知らずでも互いを仲間になると感じる対人能力を養った。
②親や教員が与えた思い込みが、
親戚のおじさんや近所のおばさんの「ナナメからの介入」で緩和された
③教室には団地・農家・商店・ヤクザなどの子が集い、互いの家を行き来していろんな生き方を学べた
④家族の外でも全人格的に扱われ、SNS のいいね!の数で代替できない尊厳(自己価値)を持てた 。
ところが、60年代の団地化で地域が、80年代のコンビニ化で家族が、90年代の携帯化で、
関係全般が、空洞化した。土地に縁のない「新住民」の不安から遊具撤去や校庭ロックアウトが進んで
外遊びが消え、地域が不信ベースになって親以外の大人との交流は消えた。
親と教員とネットと友人との希薄な関係だけが残った。
子は、親の自己実現のダシにされ、進学校に入れと尻を叩かれるが、
かつてと違って、その価値観の外が分からない。地元の公立で優等生だった子も進学校に入れば、
多くは教室で「ただの人」。自分を価値のない存在だと感じる。それで終わりではない。
疑似共同体であるのをやめた会社でも、希薄な関係の中で置き換え可能な存在で、
競争に負ければ「ただの人」。
だが、人の感情はこうした過剰流動性に耐えられない。
「死刑になりたい」「誰でもよかった」と本人が語る無差別な加害行為の背後に、
加害者自身が置き換え可能な「誰でもいい」存在として扱われてきたことによる怨念がある。
背景には、30年間続いていた絶えずクビに怯える非正規雇用化や、絶えずハブられること(仲間外し)に
怯える SNS化もある。それをもたらしたグローバル競争とテクノロジー化は今後も確実に進み
「誰でもいい人」が量産される。
横道にそれていい
米国を筆頭に海外でも学校や宗教施設での銃乱射が目立つ。
加害者の背景にあるのは、、、
以下略
上記 : 出典
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